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狂夏の烙印 在韓被爆者になった日から
在韓被爆者の証言について

韓国は日本に近い国ではありますが、単なる隣国ではありません。ほんの少し昔、日本と朝鮮半島は一つの国で、朝鮮半島の人々は日本の国民だったのです。もし日本が朝鮮半島を植民地にしなければ、広島にあれほど大勢の朝鮮半島の人々が来ることはなかったでしょうし、被爆することもなかったでしょう。
被爆のために心身共に深く傷つき辛酸をなめることになってしまった在韓被爆者を知ることは、日本人としてとても大事だと思います。日韓併合の歴史の生き証人だからです。日本の行為が、戦中、戦後を通して朝鮮半島のごく普通の人々にどのような影響を与えたのか。在韓被爆者の方々のお話から、日韓の歴史の一端を、日本の姿を垣間見ることができると思います。

本作では在韓被爆者11名の証言を収録しています。日本に来た理由や広島での生活、被爆時の体験、韓国へ帰った後の生活などをお聞きしています。被爆時の年齢は様々ですが、決して特別な体験をしているわけではありません。むしろ私が在韓被爆者の支援活動の中で、よくお聞きする内容ばかりを集めています。言いかえれば在韓被爆者の多くの方々が多かれ少なかれしている体験といっても過言ではないのです。
また私が上映会などで強調しているのが「これは子供のお話」ということです。なぜなら被爆時、この方たちは子供だったからです。最年少はお母さんのお腹の中、最年長で24歳です。この方たちはお年寄りになるまでずっと、被爆の苦しみを背負って生きてきました。ごくごく一般的な在韓被爆者の方たちの体験がどういうものであったのか。私はそれを残したいと思い、映像にまとめました。
被爆から66年以上もの長い間の出来事はいくら語っても語り尽くせるものではないでしょう。しかし在韓被爆者の方々は日本人の私にその苦労の一端を語ってくださいました。是非、耳を傾けてください。そして思いを馳せてみてください。もし自分が同じ立場だったとしたら・・・。

▼在韓被爆者Aさんの証言(男性、18歳の時、広島市宇品町で被爆)
生まれは日本。被爆は18歳の時だった。ガラスが落ちてね。腰をやられた。今も傷があるよ。腰が痛くて、膿んで、汁が出て。でも薬が無かった。その時、弟は行方不明になって、お父さんは亡くなった。お父さんを僕の手で焼いた。そして僕は、11月ころ、韓国に帰ったんだよ。お父さんの遺骨を持って帰った。

▼在韓被爆者Bさんの証言(男性、24歳の時、広島市松原町で被爆)
終戦後、親戚の家にいたが『日本の軍人が朝鮮人を殺している』という噂を聞き、仕方なく韓国に帰った。ここで帰らなければ死ぬと思った。仙崎から大きな貨物船に乗った。すし詰めで人を荷物のように載せていた。故郷に帰ってからの生活があまりにも苦しくて、帰国したのを後悔した。お腹いっぱい食べたことがない。松の枝をとってきて、叩いて、水でのばして、ふやかして食べた。仕事がなかった。人の農業を手伝って、お金をもらえないこともあったが文句も言えなかった。

▼在韓被爆者Cさんの証言(女性、胎内被曝、母親は広島市観音本町で被爆
父は徴用で日本に行ったようだ。徴用先ではずいぶん殴られたらしい。一度帰国して結婚して、再び広島へ行った。家族は体の具合が悪かった。一人は大手術を受けた。自分もずっと喉と肺が悪かった。自分は小学校にも行けなかった。
勉強どころじゃなかった。

▼在韓被爆者Dさんの証言(女性、15歳の時、広島市江波町で被爆)
被爆者であることを結婚する前は言わなかった。いつでも寝転ぶからね。からだがだるくて、足も痛かったし寝ていた。なんの病気なのか?と夫に聞かれた。若い女のくせに、なんでそんなに寝転ぶのか?と。その時、私が広島で原爆を受けたんですと、原爆病であることを話した。ああ、おそろしい。こんな病気を持った女とは暮らせない、と夫は家を出て行った。それが31歳の時で、子供は2人いた。私が一軒一軒家を訪ねては野菜や果物を売り歩き、生活した。死ぬほど苦労した。

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